「アラファトはホモだ!」Byカダフィ大佐

「アラファトはホモだ!」By カダフィ大佐

パレスチナ解放機構軍PLOのアラファト議長のことを「アラファトはホモだ!」と言ってしまうのは、カダフィかアラジーン将軍ぐらいしかいないでしょう(笑)もちろん「アラファトはホモだ」発言は嘘でもなく、本当にカダフィの発言です。実際のところ、アラファトとカダフィは険悪な仲ということでもなく、もちろんこの発言もアラファトは相手にしていませんが、10年後にアラファト一行が乗っていた飛行機がリビアの砂漠で不時着陸をした際には、アラファト議長を救出して真っ先に病院へ見舞いに行っているので「ホモだ!」発言をしていながらも、PLOとカダフィの間柄は決して悪いものではありませんでした。カダフィとの間が非常に悪かったのは西側諸国です。

カダフィのとった反米主義路線

カダフィはアラブ民族の連帯を目指す思想運動の、アラブ民主義であり汎アラブ主義の代表格といえます。これは国家を超えた連帯を目指した思想運動でですが、イスラム圏がすべてその考えに共鳴していることはなく、アルカイーダ系のイスラム過激派は汎アラブ主義には強固なまでに反対しています。カダフィはナセルの汎アラブ主義の後継者として、1972年にエジプトの第3代大統領のサダト、シリアのアサドと組んで汎アラブ主義三カ国による「アラブ共和国連合」を構想していますが、本格的な統合することなく5年後にはその関係を解消しています。ちなみにエジプトの大統領だったサダト大統領からは「頭のてっぺんから足の爪の先まで狂っている男」だとカダフィは称されています。サダトからみると、カダフィは「狂人」そのものにしか思えなかったのでしょう。

カダフィとテロ

カダフィはパレスチナ解放機構(PLO)の有力で公然とPLOを支持した人物でもありました。そのため1979年にサダト大統領がイスラエルと和平したため、このことでリビアとエジプト関係は決定的に悪化しました。また、リビアは西アフリカなどに豊富な資金援助などをしていたため、カダフィは西アフリカを中心に影響力を維持していただけではなく、地域機関であるサヘル・サハラ諸国共同体を創設して、アフリカでのカダフィが発言力と影響力を拡大するための足場としていました。

当時のカダフィの欧米諸国との関係は常に対立的でした。そのためカダフィは、アラブで最強の硬派とも言われていました。1980年代にアメリカとの関係は特に悪化します。1984年に駐英リビア大使館員による反リビアデモ警備をしていた英国警官射殺事件、1985年のローマ空港・ウィーン空港同時テロ事件、1986年の西ベルリンのディスコで爆破事件などといったテロを支援したという問題から、リビアと欧米との関係は悪化の一途をたどるようになります。

そして、1970年代と1980年代には、つねにカダフィとリビアに対しては、疑惑がもたれていて欧米やイスラエルに対する過激派のテロを支援しているといった疑惑でした。カダフィがテロを支援していることにアメリカ側も対抗するかたちで、アメリカはレーガン政権でしたが、カダフィの居宅を狙って空爆するという強硬手段をとり、カダフィの暗殺しようとしました。このアメリカの空爆はリビア爆撃と呼ばれていますが、ものすごい攻撃でした。15分間に渡って行なわれた攻撃ですが、レーザー誘導爆弾を含めた300発の爆弾が投下されて48発のミサイルが発射されています。このすざましい空爆の時に、カダフィは外出してたため、難を逃れることになりました。

このリビア空爆に対して、カダフィの報復が1988年のパンナム機爆破事件です。この通称でロッカビー事件といわれるテロ事件は、1988年12月21日に発生したパンナム機爆破事件は死者270人を出し、パンナム機がその後経営破たんする引き金にもなりました。この飛行機爆破事件は、リビアの諜報機関員が仕掛けたテロだとされていますが、カダフィはパンナム機爆破事件の容疑者の引渡しを拒否したため、国連制裁を受けています。そのため当時のレーガン政権からカダフィは「テロリスト」や「狂犬」として名指しの批判を受けることになり、それから以降もリビアとアメリカとの対立は続いていきました。

自宅が空爆された経験から、カダフィはこの空爆以降は自分の住む場所を頻繁に転々と変えていたといいます。カダフィの暗殺を狙ったリビア空爆が実行される直前でしたが、この空爆作戦に反対していたイタリア政府のその当時のクラクシ首相とアンドレオッティ外相の決断から、カダフィはイタリアから極秘で、空爆を通告されていたことが後日判明しました。たまたまカダフィが自宅にいなかったのではなく、空爆されることを知っていたため、その時間に自宅にいなかったということです。

カダフィの主張する汎アラブ主義に対する評価はさまざまになっていますが、一部の保守派の中から、カダフィの死後に「カダフィーの内政とかテロ支援といった独裁政治のことは、ともかくとして、石油の関税自主権を国際石油資本から取り戻して、国民にも一定の繁栄をもたらした。」とした限定的ではありながらも、カダフィを評価する声も実際にあります。

カダフィがとった冷戦後の路線

パンナム爆破事件の容疑者引渡しを、カダフィは拒否したため徹底的にアメリカから経済制裁を受けます。経済制裁が解除されるまでは、日用品のジュースやタバコなどの販売価格が非常に高額で、砂糖や油といったものは配給制度がとられていたそうです。そして首都のトリポリであっても、高いビルは数軒程度といった状況でした。

1988年3月3日に、カダフィはこれまたど派手なパフォーマンスを行ないました。それはトリポリにある刑務所の壁を、ブルドーザーをカダフィが運転して刑務所の壁を破壊するというパフォーマンスです。このパフォーマンスは恩赦でした。刑務所の囚人400人を解放するという、派手はパフォーマンスをすることで、リビアの国民から支持を得る一方で、1999年にパンナム機爆破事件の容疑者をハーグ国際法廷への引渡しに応じることにしました。

そして2003年8月に、パンナム機爆破事件に関してリビアの国家として事件へ関与していないと否定はしながらも、パンナム機爆破事件は、リビア人公務員が起こした事件として、そのための責任を負うとして総額27億ドルの補償に合意しました。カダフィは、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件に際しては発言したのは、アラブ諸国の中でアル=カーイダに対する激しい非難を表明した指導者の1人でもあり、世界的なテロ批判の風潮を、リビア国内のイスラム過激派組織「リビア・イスラーム戦闘団」の封じ込めに、アメリカ同時多発テロ事件を利用しました。

そして、アメリカが介入したイラク戦争の後には、ブッシュ政権が率いるアメリカといった西側諸国から、カダフィが新たな攻撃対象にされるのを恐れていたためでしょうか、2003年末に核放棄を宣言しています。過去には散々査察団の受け入れを拒否していましたが、核査察団の受け入れをすることで、アメリカに対しての態度を改める行動を起こしていきました。

アメリカなどの西側諸国は、カダフィのとった対応を評価して、今まで行っていた経済制裁などを解除することになり、リビアをテロ国家指定から外す措置を取るこなりました。そしてリビアとアメリカは2006年5月15日に国交正常化が発表されました。ちなみに、リビア政府はパンナム機爆破事件といった遺族補償として、15億ドルをアメリカ政府に支払っています。そしてその一方のアメリカ側も、一連のテロの報復としてアメリカ軍機がリビアを空爆した際の民間被害ということに対して、3億ドルの支払いに応じています。

2008年10月に、リビアはアメリカ人犠牲者への補償金の支払いが完了したことで、リビアとアメリカと国交は完全に正常化となりました。そして2009年7月に行なわれたラクイラサミットでは、夕食会の記念撮影の際にカダフィとバラク・オバマ大統領は握手を交したことで、世界各国に国交正常化を印象付けることになりました。カダフィといえば、お約束の?とんでも発言ですが、カダフィがオバマ大統領についてリビア国内で演説した際に「オバマはイスラム教徒である」といった誤った認識を語ったことがあります。

カダフィの反米姿勢から国交正常化へと傾いた態度の変化には、カダフィの政治的な関心が、各国間の対立が激しくいため、ほとんど進展を見せることがない「汎アラブ主義」から、欧米との利害対立が比較的少ないといわれている「汎アフリカ主義」に移行しつつあるのでは、と指摘する意見がでています。実際に2000年にトーゴで開かれたアフリカ統一機構首脳会議に、長年この機構とは疎遠になっていたカダフィが出席して地域統合の必要性を唱えています。そして2002年のアフリカ統一機構からアフリカ連合への改組の際には、カダフィがこの際に主導的な役割を果たしているからです。

2009年9月には、リビア革命40周年記念式典が行われました。記念式典にはリビア原油の主要輸出先になっているイタリアのベルルスコーニ首相が植民地支配の謝罪・賠償合意にリビアを訪問してほか、式典にはベネズエラのチャベス大統領、スーダンのバシール大統領、ジンバブエのムガベ大統領、カタールのハマド首長、フィリピンのアロヨ大統領、イラクのハーシミー副大統領らが姿を見せて、リビア最高指導者のカダフィと笑顔で握手をしています。

ブラックユーモア炸裂!