独裁者ムアンマル・アル=カッザーフィー

独裁者ムアンマル・アル=カッザーフィー

カダフィ大佐の本名はムアンマル・アル=カッザーフィーです。私たちはカダフィ大佐といったほうが馴染みがあります。アラジーン将軍がイメージしたのは、リビアの軍人で政治家で革命家のカダフィ大佐です。私たちはカダフィ大佐という呼び方に馴染みがありますが、カダフィ大佐の称号は称号は「リビア最高指導者および革命指導者」です。北朝鮮の故金正日を紹介する時に、北朝鮮のアナウンサーが「偉大なるわが国の指導者で、親愛なる指導者様の・・」といったやたらと褒めちぎる言葉が続きますが、カダフィ大佐の称号も金正日に負けていません。1969年のリビア革命で政権を握ってからアラブの春の後に起きたリビア内戦で政権が崩壊して殺害されるまでの間、リビアで独裁政権を維持していました。そしてアメリカLAタイムズによると、故カダフィ大佐は実は世界一の大富豪で、各国の銀行・証券・金塊までも含めると総資産は推定15兆円以上!!とも言われていて、フォーブス長者番付で2連覇したスリム氏の633億ドルの約3倍というからすごい資産です。どのようにベドウィンから一国の実質的な統治者になることができたのでしょうか?!

革命家カダフィ

カダフィ大佐の大佐という階級そのものに違和感を感じることがあるかもしれません。カダフィはリビアの実質的指導者であり国家元首として君臨しているにもかかわらず、なぜに「大佐」という軍の中間幹部階級の大佐なんだろう?!と思うかもしれませんが、リビアは建前上は「国家元首」という概念そのものを否定しているからです。そしてリビア軍には大佐より上の階級も存在していてます。カダフィがエジプトの軍人でもあり大統領にも就任した政治家ナセルを敬愛していて、ナセルが「陸軍大佐」だったことから、それにならってカダフィ大佐とまねたのではとも言われています。

カダフィの生い立ち

1942年6月7日にカダフィは、リビアの砂漠地帯に住むベドウィン(砂漠の住民)の子供としてスルトで誕生しました。ベドウィンは、アラブ化したベルベル人のカッザーファ部族で、通常はアラブの遊牧民の人たちのことをベドウィンと呼びます。カダフィは、ムスリムの学校で初等教育を受けています。そして第一次中東戦争の影響を受けることになり、エジプト自由将校団の中心人物だったガマール・アブドゥル=ナーセル(通称:ナセル)のエジプト革命に魅せられていき、アラブの統一による西洋、特にキリスト教圏への対抗を志したのでした。1956年のスエズ危機では反イスラエル運動に参加しています。そして、ミスラタで中等学校を卒業していますが、カダフィは学校教育のときには、歴史に特に興味を示していたそうです。

軍人として

1961年にベンガジの陸軍士官学校に進みました。そして陸軍士官学校に在学中から、仲間たちとサヌーシー朝王家打倒を計画しており、自由将校団の組織を始めました。陸軍士官学校を1965年に卒業するとイギリス留学に派遣されています。そしてイギリス留学から1年後に帰国しています。帰国後は通信隊の将校となりました。1年間のイギリス留学経験があるので、さぞや英語が堪能なのでは?!と思ってしまいますが、実際のところカダフィは留学経験はあるもの、英語は苦手だったようで、1986年4月にアメリカ軍がトリポリを空爆して、アメリカとリビアの関係が極度に緊迫した時期がありましたが、そのときアメリカのある小学校の生徒たちが、カダフィ宛に世界平和を求める手紙を書いて送ったところ、カダフィから手紙を送ってくれた生徒たちに全員に英語で返事が届きましたが、カダフィからの返事の手紙は、文法やスペルが間違いだらけだったという逸話があります。小学生への返信に、スペルや文法が間違いだらけというのは、笑えますがそれからだんだんと英語も進歩したようで、特派員からのレポートで外国要人と話をするときに英語も上達してきたようだとのレポートが2000年代にあるので、少しずつ独裁者でありながらも、勉強したのかもしれません。

カダフィ政権をとる

1969年9月1日に、カダフィは志を同じくする将校たちと共に、首都のトリポリでクーデターを起こして、ついに政権を掌握することに成功しました。当時の国王イドリース1世は病気療養のためにトルコに滞在中でしたが、イドリース1世は国王としての立場を廃位されて王政は崩壊して、カダフィ率いる新政権は共和政を宣言して国号を「リビア・アラブ共和国」としました。同年1969年11月に公布された暫定憲法によって、カダフィを議長とした革命指導評議会(日本の報道では「革命評議会」)がリビア・アラブ共和国の最高政治機関となることが宣言されました。そして翌年にはカダフィが革命指導評議会議長と公表されています。

カダフィは1973年から「文化革命」を始めます。イスラムとアラブ民族主義と社会主義とを融合した、カダフィ独特の「ジャマーヒリーヤ」(訳すと直接民主制)という国家体制の建設を推進していきました。翌年の1974年には「政治理論の研究に専念するため」として、革命評議会議長職権限をナンバー2の立場にあるジャルード少佐に委譲しました。ただし、ナンバー2にカッ九名評議会議長職権限を移譲してはいますが、退任はしていません。

1976年に、カダフィ自身の思想をまとめた『緑の書』という題名の本を出版しています。この緑という色は、イスラムのシンボルカラーになっていて、社会主義の赤に対して「イスラム社会主義」を緑は象徴する色になっています。そして1977年、カダフィは人民主権確立宣言を行って、「ジャマーヒリーヤ」を正式に国家の指導理念として導入しました。これによって、国号も「社会主義リビア・アラブ・ジャマーヒリーヤ国」(1986年にさらに改称して「大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国」)に改めています。

ジャマーヒリーヤ体制のもとで、国権の最高機関として全国人民会議が設置されて、カッザーフィーが初代全国人民会議書記長に就任していますが、この立場は国会議長職に相当しつつ国家元首としての権能も有したまさに国家元首であり指導者としての立場となりました。その後カダフィは1979年に全国人民会議書記長を辞任して一切の公職を退いていますが、「革命指導者」の称号のもとで、実質上の元首としてリビアを指導し続けました。

この頃の服装

カダフィはトリポリでクーデターを起こしたのが1969年ですが、1970年~1980年代のこの時期にどのような服装をしていたかというと、陸軍軍服姿や質素なベスト姿といった姿で過ごしていたことが多くありました。アラジーン将軍のように、ど派手な軍服姿というよりも、実務優先だった服装だったといえるでしょう。

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